鍋島 香代 さんの意見陳述 (2005年7月11日)

 おはようございます。
 今回、西宮市に「平和・無防備条例」制定を直接請求いたしました、請求代表者の一人として、また、西宮市内でささやかな憲法勉強会を運営してきました者として申し述べさせていただきます。
この勉強会は、2000年、国会の両議院での憲法調査会がはじまり、調査会とは名ばかりで、実際には憲法改正に向けての準備会のような性格をもった会ではないかとの懸念から、調査会での議論をチェックし、より多くの市民とともにまず現憲法の中身から勉強し、改憲の内容がいかなるものかを一緒に考えていく必要があるのではないか、との思いから、はじめたものです。
 4月に両議院の憲法調査会から出された報告書でも9条2項の見直し意見が大半を占め、特に集団的自衛権にも触れています。自衛隊を「自衛軍と明記せよ」という意見もあります。
 しかし、現実の政治を振り返ってみれば、1949年頃から9条を蔑ろにする動きが常態化し、憲法の平和主義の理念が全く踏みにじられ続けてきたというのが、この国の悲しい現実でもありました。現憲法は近代立憲主義の系譜に属し、民主国家の基本である憲法尊重擁護義務を99条で規定し、権力制限規範として憲法は存在するものです。
 内閣の閣僚や国会議員、地方議会議員をはじめ、すべての公務員に憲法尊重擁護義務を課していますが、9条の理念を形骸化させてきた政治的権力を行使する人たちはその義務さえも、全く果たすことなく黙殺してきたと言えます。

 2年前、アメリカ合衆国がイラクに先制攻撃を始めたとき、この国の首相はいち早く「国益にかなう」としてアメリカの軍事行動を支持しました。
 しかし、この国益とはそもそも何をいうのでしょう。その説明は、未だにありません。
「国益」というの中身が一義的ではない不明瞭な概念では、市民は納得できません。そして、それが一部の者の「私益」=ワタクシの利益でしかないことは、自明のことであります。そういう詭弁を弄する人が動かす国政のレベルで、私たち一人ひとりの命を本当に守れるのかは大いに疑問です。
 そもそもこの国益の「国」とはこの国に住むすべての市民の総体であり、漠然とした国家形態でもなければ、国土でもない、国家意思の主体足りうる法人格のようなものでもありません。そうであれば、「国益」という言葉も、まず、その「国」を形成する全ての人々の命を守ることが、最低限の国益であるはずです。
 国益を守るために、他国の無辜の市民の命を奪う行動に参戦しているととられかねないイラクへの海外派兵は、その決定を発表した一昨年の12月、奇しくも首相の口から「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と憲法前文を引用して述べたまさに「自国のことのみ」の利益のために動いたといってもいい、論理矛盾でもあります。
 過半数の国民の反対する中、小泉内閣の行った自衛隊派遣は、自衛隊員の命を危険にさらすだけでなく、現地イラクで必要以上の武力衝突の危険性を拡大し、現地の無辜の市民の命さえ無用に奪いかねない危険な決定でした。そして、またロンドンでも起きてしまったテロと呼ばれる少数者の反撃にあったことで、アメリカ、イギリスなどいわゆる現在の連合国と同調してしまったこの国の首相はこの国にもいつ、あのようなテロがおきてもおかしくない火種を自ら呼び込んでしまった結果にもなっています。
 このような国、国政の責任者には本気で市民の命を守るという意識が皆無であるとしか思えません。
 国民保護法でも結局は市民の命を守りきれません。それどころか、危険にさらすおそれさえある市民の命を軽んじる法制です。自衛隊も、もちろん市民の命を守るために訓練された組織でないことは周知のとおりです。
 次に同じ請求代表者である野田さんが詳しく述べることではありますが、過去の歴史は、「軍隊は市民を守らない」むしろ、場合によっては一般市民が自国の軍隊によって命を奪われるという事実をいくつも積み重ねてきています。一方、軍隊への不服従が住民の命を守った、という重い歴史的教訓があるのです。だからこそ今回、市民の側から、市長に条例制定の直接請求をするという形で、地方自治体の単位で市民の生命、身体を守ってもらう条例案を提案したわけです。
 さて、この国の憲法が、すぐれているのは、無論、9条の存在だけでなく、まず内外の夥しい市民の命を奪った戦争の時代、あるいは国民が言いたいことも言えなかった時代の反省の上にたって13条で「個人の尊厳」について規定している点を上げることができます。
まず、憲法の根本理念はこの「個人の尊厳」原理(13条)であり、その原理を実効化する理念として、人権尊重主義、平和主義、民主主義などがあるわけです。
 そして、この個人の尊重の最低限の保障内容は、やはり生命を脅かされることなく平穏に生きていく前文にある平和的生存権(→条例案2条)であると考えることができます。

 今回、署名活動を通じて多くの市民がその活動に参加し、それ以上に多くの市民の方々と街頭の署名集めなどを通じてお話しをする事ができました。
 そしてこの一ヶ月間のこの署名活動こそ、憲法13条−個人の尊厳−の理念を市民自ら実践し、実感した場でもあり、自らの命はまず市民自らの意思で守るのだという決意の表明の場でもありました。
 ともすれば9条は形骸化しているから、現実にその形骸化した9条を適合させるため、改正しなければならない、という本末転倒な議論が堂々と国政レベルでは行われていますが、「戦争放棄」と「戦力の不保持」という平和主義の中身を改めて認識し、現実の違憲状態を修正して本来の9条の理想に近づけようとの市民の平和を求める意思を改めて感じることができました。
 街頭での署名集めでは、特攻隊での経験から「当時は戦争や国への怒りがあっても言えなかったが、いまはこうやって意思表示ができるだから、あんたらガンバレ」という年輩の男性。「当時の国によって、ワシらは騙されて戦争に駆り出されたんや。戦争をして何もええ事はなかった」という戦争体験者の声もありました。「お国のため、軍隊に送られた」という声にも重いものを感じました。
 いま、改めてその「国」の名の下に戦争を行い、市民を戦争に巻き込もうとしている流れの中で、過去の「お国のため」とは何だったのか、今、その実態不明な「お国」のために二度と犠牲を出す事があってはならないと、改めて感じさせてくれました。
「武器はいらない」という率直なご意見もたくさんありました。それこそが無防備地域宣言の理念であり、何よりも、戦力不保持を規定した9条の理念を市民の側から願う声でもあったわけです。
 そして、それを体現するのは、平和憲法を持つ社会の、平和を地域から実効化あらしめるため全ての平和の理念を盛り込んだバイブルとも言うべき内容をもつこの条例案であると考えます。
 私たちは、他国からの攻撃を受ける事はもちろんのこと、他国の市民を攻撃することも絶対にあってはならないと考えています。
 それが、結局、一人ひとりの命を尊重することであり、たとえ政治の貧困から険悪な関係になった相手国があったとしても、その国の市民の命もどこまでも守られねばならないと考えます。それが本来この憲法が掲げる国際協調主義であり真の平和主義でもあります。
 何度も申しますが、本来、首相以下、全ての国会議員、地方議会議員をはじめとする公務員には、憲法尊重擁護義務があるのに、この9条をめぐっては遵守されてきた歴史がありません。その政治が作り出した違憲状態をリセットして本来、憲法に書かれた真の平和主義を貫くことはもはや、いまの政府に望むべくもありません。

 だからこそ、市民の側から憲法の理念に則った平和主義の内実である生命の尊重、平和的生存権を保障していくべきではないかと考えたのです。
そのための具体的方法として、この平和・無防備条例の成立を西宮市が、全国に先駆けて、ぜひ実現させていただきたいと考えるしだいです。

(発言原稿ですので、当日の発言とは若干異なる部分があります。)

 意見陳述(発言原稿より)
  (2005年7月11日)